御神域は、国際的にもユニークな「都市づくり」として注目されている、筑波研究学園都市のほぼ中央に位置し、社地は広大で境内には老杉・欅が鬱蒼と生え茂っており、千幾百年の古き歴史を物語っています。 北に霊峰筑波山、東に水清き霞ヶ浦を控え四季の風情も又格別であり、春の緑・夏の木陰に多くの崇敬者が訪れます。老樹天を摩す境内には、加藤弘之博士の追遠碑等もみられます。 各機関の近代建築物が立ち並ぶ研究学園都市の中にあって、伝説に語り継がれるこの古き磐根に鎮まります大神は、全ての人々の幸せと永久に世界の安定と共栄とをお守り下さることでしょう。
抑一ノ矢八坂神社の御儀は、その昔清和帝の朝、貞観年間山城国愛宕郡より、御祭神素戔嗚尊を、病厄難・海上安全の守護神、振武文教の祖神として崇め勧請鎮め奉った由緒ある御社であり、創祀以来悠久実に千百有余年の星霜を閲しております。
天慶年中には、藤原秀郷が深く崇敬弓矢を寄進し戦勝の神恩を感謝、正治年中に至り八田和家が小田家に居住以後は、小田家歴代の崇敬篤く、又建武の兵乱に藤原藤房小田に在りし時は、玉取の里花圃と称える小田家の遊覧所に度々来遊、八坂大神の霊顕あらたかなるを慕い篤く崇敬せられました。
御社殿は、永禄より天正の始めに至る小田家戦乱の際に戦火をあび炎上、後文禄年中に郷民挙ってこれを再建しました。
過ぐる延宝四年四月に至り領主堀東市上通周が改めて御本殿を造営、さらに宝永八年三月堀隠岐守利寿が拝殿を造営現在に至っております。
( 明治六年旧郷社に定められました。)
人生のまつりに込められた願い
見つめ直してみませんか
"七五三参とは"
十一月十五日に、三才の男女児、五才の男児、七才の女児が晴れ着を着て、親子そろって神社にお参りし、子供の成長を神さまに感謝し、これからの無事を祈ります。
七五三は、この年頃の子供の年祝いをする古くからの風習に由来するもので、
代表的なものは、三才の「髪置」、五才の「袴着」、七才の「帯解」の祝いです。
「髪置」は男女児ともに行われた儀式で、この日を境に髪を伸ばし始めました。また男児は「袴着」で袴を着け始め、女児は「帯解」でそれまで付け紐で着ていた着物から帯でしめる着物にかえました。つまり形式的にではありますが、七五三を終えて、晴れて一人前として扱われるようになったのです。
七五三参りは、昔は数え年で行いましたが、今では満年齢で行うところが多くなりました。
"七五三参り"
着慣れない着物を着て長時間おとなしくしていることは、子供にとってつらいことですが、せめて御祈祷の時ぐらいは、きちんとしたいものです。
「今日は、○○ちやんが健康で良い子に育ったことを神さまに見てもらうためのお祝いだから、きちんと神さまにご挨拶しましょうね。」と声をかけてあげれぱ、子供ながらに、「今日は私のお祝いなんだ」とわかるものです。
お参りの作法は、神社で教えてくれますので、お祝いのお子さんを中心にして家族みんなでお参りしましょう。
子供が生まれてから七才になるまでの間に様々なまつりが行われるのは、昔から子供は「七才までは神の子」として、神と人との世界の両方にまたがっていると考えられていたからです。
事情により「御朱印」の取り扱いはしていません。
ご希望の方は、御参拝の後社務所掲示の「QRコード」を読み取り下記画像をお持ち帰り下さい。
神社の創建は、平安時代の前期貞観年中に京都・祗園の八坂神社から御祭神『素戔嗚尊(すさのをのみこと)』を、病厄難・海上安全の守護神、振武文教の祖神として勧請鎮め祀ったのが初めで、創始以来千百有余年の悠久の歴史を刻んでいる。
天慶年中には、将門の乱で、平貞盛と倶に将門追討を命ぜられた藤原秀郷がその戦捷祈願に弓矢を奉納し厚く崇敬したともいわれる。
鎌倉時代には小田氏の領地におかれ、小田家歴代の崇敬篤く、建武の兵乱に藤原藤房が小田に居住の際には玉取の里「花圃」と称える小田家の遊覧所に度々来遊し八坂大神の霊験あらたかなるを慕い崇敬せられたとのことだ。
御社殿は、永禄より天正のはじめそれまで崇敬篤かった小田氏が佐竹氏に攻められ敗れたとき兵火にかかり当時の社殿は焔上消失した。
文禄年間郷民が挙ってこれを再建したと言われ、江戸時代にも代々の領主の保護が厚く本殿や拝殿を再建造営するなどされて現在に至っている。
覆屋のなかの本殿は、一間社流造りで、縁下の部分と縁上の部分とが別個に造られている貴重で特異な構造となっている。彫刻を多用し、柱や壁面に地紋彫を施した和風木構造の代表というべき要素を持った装飾的な神社建築物である。
多くの御神宝の中に、瑞花雙鳥八稜鏡がある。
白銅製で圏線をもって内外の両区を分け、内区に花文座紐を中心に旋転する瑞花と鳥を交互に配している。外区は一連の唐草文と羽を広げた胡蝶を布置している。小田氏寄進と伝える南北朝時代の力強い鏡である。
このお社は、その昔から「一ノ矢の天王様」と呼ばれて広く関東一円の崇敬者から尊崇されています。
伝説によると、大昔九州地方からカラスが飛んできて田畑を荒らすので、これを退治しようと天に向かって矢を放ち、第一の矢で射落とした処に御鎮座したのが、この一ノ矢八坂神社(一ノ矢天王様)だと言われています。
カラスは足が三本あり玉を持っていたので、射落とされた地域を「玉取村」としたとされております。また現在でも矢を射たところは「天矢場」、玉を埋めた処は「玉塚」という地名で呼ばれております。
天王様とは牛頭天王の略で素戔嗚尊と同一神として崇められています。牛頭天王は祇園天神ともいい水神として信仰されていましたが、やがて疫神を支配する神として信仰されるようになりました。
この神を勧請した平安京の祇園社(京都の八坂神社)では、貞観18年(876年)に疫病の大流行があり占うと牛頭天王の祟りであったことがわかり、この悪病を払うために盛大な御霊会を行いました。これが祇園祭(天王祭)の始めであるとされています
一ノ矢八坂神社の御祭神は、素戔嗚尊ですが午頭天王とも呼ばれ、日本では京都の祇園社(八坂神社)に除疫神として祭られたのが始めてでありました。
神社の創建は、平安時代の前期で今から一千百有余年前の清和天皇貞観年間とされております。以来今日まで、この神社のお祭りは、祇園祭として五穀豊穣・無病息災等の祈願として執り行われてきたものです。
午頭天王は除疫神として信仰されたので、その祭りは疫病の流行する夏に行われ、茨城県における天王信仰の中心となり「一ノ矢の天王様の祭りが済まないうちは、自分たちの祇園祭は行わない。」とか「県内の祇園祭は、一ノ矢の天王様に始まる。」とか言われてまいりました。特に祭りの時に疫病除けに効力のあるニンニクが魔除けとして神社から頒布され、また境内にはニンニクの露店が立ち並ぶので、「ニンニク祭り」と呼ばれ広く一般に知られております。
ニンニクは、尊が朝鮮にお渡りになり採鉱・冶金・植林・医薬品等について学ばれた多くの技術や木種と共に、薬用の効力に優れた霊力があるものとしてお持ち帰りになられたもので、その後病気・病難祓除の強精剤として賞用されたと云う遺風が現在まで伝承されているものと信じられております。
実際の「ニンニク祭り」の定着は、江戸時代中期に起きた、天明の大飢饉の時に疫病が蔓延したが、当時の地域の領主であった、堀田対馬守がこの神社の「ニンニク」で多くの人をお救いしたという逸話が伝えられておりますが、以後当神社の祇園祭には、病厄難を祓い清める「ニンニクお守り」が御霊蒜としてはんぷされ、その御利益の信仰により「一ノ矢八坂神社の祇園祭」が「一ノ矢八坂神社のニンニク祭り」と呼ばれるようになったものと思われます。
祇園例大祭は、毎年旧暦6月6日、夕刻からの宵宮祭に始まり、6月14日早朝の還幸祭までの期間続きますが、いわゆる「ニンニク祭り」として賑わうのは、最近では6月7日1日だけとなっております。
祭日には、境内に所狭しと色々のお店が張られます。早朝より茨城県内はもとより、関東一円から参拝にこられる方々も大勢おられます。
神社では、色々な御祈祷をお受けするのは勿論、御神札・お守り等と一緒に清祓・御祈祷を済ませた「ニンニクお守り(御霊蒜)」を頒布いたしております。
多くの参拝者はこの「ニンニクお守り(御霊蒜)」をお持ち帰りになり各々の御家庭の戸口・玄関等に吊り下げて、御家族御一家の家内安全と無病息災を御祈念されるわけです。
強烈な臭いと、薬として、また香辛料としての抜群の効力により、悪しきものから人間を守る抜群の力を持つと信じられている「にんにく」は、たしか「ドラキュラ」も苦手だったのではないでしょうか。
国内では、青森県の弘前市郊外に御鎮座しております{鬼神社」の名物は「ニンニク市」だと云われております。
当神社のお祭りは、深い信仰に根ざした、病気・厄難祓除祈願の「ニンニク祭り」国内では他に例のない独特な祭りであります。
牛頭天王は除疫神として信仰されたから、その祭りは疫病の流行する夏に行われる祗園祭で、「一ノ矢八坂神社」の祗園例大祭は毎年旧暦六月七日に行われる。
八坂祗園祭は五穀豊穣、無病息災の祈願祭である。
神社に伝わる古文書には、文安二年の年号入りで御神輿渡御の際の長刀持ちや鉾持ちなどの役割分担が記されており、祭りに少なくとも五百年以上の歴史があることが分かる。
「新編常陸国誌」には「筑波郡一矢村ノ天王ハ、六月七日ヲ以テ祀ル、辺地ナレドモ霊威赫如(かくじょ)タリトテ、其名四隣ニ聞エ、緇素(しそ=僧と俗と)多ク参詣ス」とあり、下妻市の旧家に残る万延元年(一八六〇年)の「年中家行事」には、「六月七日一ノ矢天王祭。朝飯後遊ぶ。朝早麦まんぢふこしらう。晩にうんどん。天王初穂、百文にて札迎ひ」と記され、江戸時代に広く信仰されていたことが分かる。
現在神社から相当離れた地方などでも六月七日は一ノ矢の天王様の日といつてうどんを作って神棚に供え、仕事休みにしている所があるという。
一ノ矢の天王は茨城県における天王信仰の中心で、一ノ矢の天王様の祭りが済まないうちは、自分達の祇園祭りは行わない。」とか「県内の祗園祭りは、一ノ矢の天王様に始まる。」とか言われてきた。
一ノ矢天王が、県内天王信仰の中心となつたのは古い歴史を持つためであろう。
五穀豊穣・海上安全・豊漁祈願・厄難除けの御神徳がつとに名高く、関東・東北遠近から集まる多くの善男善女で賑わう夏の祗園例大祭は、今でも『にんにく祭』と呼ばれて有名だ。。
祭の時には、無病息災・家内安全を神前で祈祷した疫病除けに御神徳がある『ニンニクお守り(御霊韮)」が、神社で頒布授けられる。
お参りした人達は、神社から、お神札と「御霊韮」をお受けして家に持ち帰り、
ニンニクが袋に入ったままの御守りを軒端や天井に吊すなどして厄除けとしている。
「ニンニク御守り」は、御祭神「素戔鳴尊」が朝鮮からお持ち帰りになったニンニクに厄除けの力があつたとの伝えにちなみ、疫病の流行期に除疫を願って神社から迎えたニンニクを門戸に吊すという独特の習俗を生んだのである。
話は、江戸時代の中期に下って、天明の大飢饉が起き、疫病が蔓延した。その時、地域の領主、堀田対馬守は、この艱難を「一ノ矢八坂神社」のニンニクを用いて多くの人々を救ったという逸話が伝えられている。
一ノ矢天王のニンニク祭りはその遺風の伝承されたものだと考えられその伝説は連綿と続いている。
以後「一ノ矢八坂神社」の「祇園祭」は、病厄難を祓い清める「ニンニクのお守り」を授かるその御利益の信仰により「ニンニク祭り」と呼ばれるようになり、今日に至っている。
八百万の神々の中心、皇室の御祖神である 天照大御神をおまつりするのが、三重県伊勢市にご鎮座の「皇大神宮」(内宮)です。この皇大神宮のお神札を「神宮大麻」と言い、「お伊勢さま」「お祓いさま」とも呼び親しまれています。 大御神の御恵みが広く国家、国民の上にと願われた明治天皇の思召しにより頒布されてきました。 天下平安の祈りがこもった大切なお神札です。毎年、地域の神職や総代さ んを通じてご家庭にお配りしています。 新年を迎えるにあたり、神宮大麻と地域をお守り下さる氏神さま・鎮守さまのお神札も新しくおまつりし、一年の無事と幸せを祈りましょう。
あらゆる生命が芽生えを迎える春。 立春の前日にあたる節分(二月三日頃)には豆まきをし、 向こう一年の災厄を祓い一年の健康を祈りましょう。 ひな人形を飾り、菱餅、桃の花を供えて、 女の子のすこやかな成長を祈るひな祭り。 喜分の日(三月二十一日頃)には 祖先の御霊をおまつりし、みんなでお墓参りをします。 五月になれば端午の節句。 春の爽やかな風に家々の鯉のぼりが空を泳ぎ、 家庭では武者人形などを飾って,男の子の元気な成長を祈ります。
芽生えた若葉が色づき、農作物の一番の成長期である夏。 一年の折り返し地点である六月の晦日、 全国の神社では夏越の大祓が行われ、 人が知らず知らずのうちに犯した罪や過ち、 心身の穢を祓い清めます。 七夕(七月七日)には短冊に願いを込め 笹の葉に吊るし、夜空に星を探します。 お盆は祖先や家族を想う大切な時間。 家族、親戚みんなが集まり、 盆提灯を灯し、ご先祖さまの御霊をお迎えし、 みんなで一緒におまつりします。
野山が秋色に染まり、 作物の収穫を神さまに感謝する秋。 重陽の節句(九月九日)では縁起の良いとされる 菊の花を観賞する行事が全国の神社で催されます。 また旧暦八月十五日の夜を十五夜と言い、 中秋の名月の下、月見団子やススキを供えて 作物の実りを感謝します。
一年最後の日である大晦日。 神社では大祓が行われます。それに先立ち 家々では、歳神さまをお迎えするために 大掃除をして、玄関先に門松を立て注連縄飾りをしまます。 夜になれば家族そろって 年越しそばを食べてこの一年に想いを馳せ、 新たな年が訪れるのを待ちます。 そして年が明けると氏神さまに初詣をし、 新たな一年の安全と多幸を祈願します。 秋分の日(九月二十三日頃)には祖先のお墓参りをし、 秋が深まる頃には、 子供の成長を祝う七五三が行われます。 神社の境内で千歳飴を大事そうに持っている 子供たちの姿は微笑ましいものです。
事情により「御朱印」の取り扱いはしていません。
ご希望の方は、御参拝の後社務所掲示の「QRコード」を読み取り下記画像をお持ち帰り下さい。